「戦争孤児」というと、日本とは馴染みの薄いもののように感じられるかもしれませんが、戦後75年以上が経過した現在でも、日本の国内外には様々な戦争孤児が今なお人権が保障されていないことに苦しんでおり、高齢化の中でも必死に声を上げ、語り伝え続けています。
第二次世界大戦では、広島・長崎の原爆被害・沖縄戦・東京大空襲など、全国で何十万人もの民間人が犠牲になり、多くの子ども達が親を喪いました。他にも、出兵先の外国で親を喪った戦争孤児も国内外にいます。
1945年3月9~10日の東京大空襲では、僅か一晩の間におよそ10万人の民間人が犠牲になったと言われており[1]、厚生省(現:厚生労働省)が1948年に実施した「全国孤児一斉調査」によると、当時の日本には12万人あまりの戦争孤児がいました。しかし、戦災で個人情報が紛失して誰が親なのか分からなくなってしまった子どもや、差別や迫害を避けるために孤児であることを隠しざるを得なかった子どもがいた、調査時点ですでに死亡していた戦争孤児を含んでいない、沖縄はそもそも調査すらされていなかったなどの理由により、信憑性が極めて限定的な統計数値だといわれています[2]。
終戦前後には東京や大阪などの大きな駅の内外に戦争孤児があふれ、戦争孤児たちは「浮浪児」や「泥棒」などと差別的な呼ばれ方をされて白い目で見られ、差別や迫害を受けていました。「”浮浪児に食べ物をやるな”と貼り紙をされたり(戦後、路上の戦争孤児は排除・取り締まり対象になっていったため)、匹と数えられたりするなど、人として扱われていなかった」「狩り込みと呼ばれる行政の強制保護収容では、駅などで路上生活をしていた戦争孤児を30人ほど捕まえて、トラックで夜の山奥に棄てていた」[3]という証言も残っています。
親や親族を捜そうと、盗みや物乞いをして生き延びようとしたものの、多くの戦争孤児たちが全国の駅や路上・地下道などで餓死・凍死しました[3][4]。
もちろん、当時の日本政府も保護施設(集団合宿教育所)を全国につくる方針を示したものの、規模・予算ともに不十分で、これを見かねた民間有志が保護施設を用意して身寄りを喪った子ども達を保護していましたが、圧倒的に数が足りず、支援が全く追いつかない状況でした[3]。
実際、先述の「全国孤児一斉調査」によれば、保護施設に収容された戦争孤児は、全体(12万人あまり)の僅か約1割(1.2万人あまり)で、施設に保護されたとしても、引き取る親戚がいなければ養子に出されていました[3]。
養子や親族の下で大事に育てられた戦争孤児もいますが、戦乱の影響で人々の心は荒みきり、労働力となっていた大人たちは徴兵されたり・戦死したりしたことで、どこの世帯も深刻な人手不足に陥っていたため、養子や親族に引き取られた後も、学校に通えず奴隷のようにこき使われたり、お荷物扱いされて暴力(言葉の暴力も含む)を振るわれたり、身内からもいじめや暴力を受けたりするなど、重労働や虐待の被害に遭う戦争孤児もいました。耐えられずに引き取り先を脱出・逃亡し、再び路上生活に戻ってしまう戦争孤児たちもいたようです[3]。
日本の戦争孤児たちのこうした壮絶な状況は、映画・文学作品「火垂るの墓」を筆頭に、多くの戦争記録作品で克明に描写されています。