かつてイギリス領だったインドは、1947年8月14日にインドとパキスタンに分離・独立したのですが、当時のパキスタンは、西パキスタン(現在のパキスタン・イスラム共和国)、東
パキスタン(現在のバングラデシュ人民共和国)という、1,000km以上も離れた別々の地域で構成された状態で独立しました。
[2]
そのため、生活様式や文化・宗教・構成する民族などの多くの物事が大きく異なっており、特に言語の違いが両地域の間で大きな摩擦になっていました。当時の西パキスタンでは主にウルドゥー語が話されていましたが、東パキスタンでは主にベンガル語が話されていました。
政府機能は西パキスタンにあったため、当時のパキスタン政府は、ベンガル語を話す東パキスタンの人たちに「これからはベンガル語ではなく、西パキスタンで使っているウルドゥー語で会話・読み書きをしてください。学校やメディアも全てウルドゥー語を使ってください。ベンガル語は使ってはいけません。」と、使っている言語の矯正を強制しようとしたのです。
勿論、こうした動きに対して東パキスタンの学生たちから強い反発が起こり(「ベンガル語国語化運動」とも呼ばれています)、当時のパキスタン政府は「政府に反する行為をしたら射殺する」と、東パキスタンの学生達の抗議・デモの弾圧・封じ込めを図りました。1952年2月21日、東パキスタンの学生たちは、当時のパキスタン政府の圧力に屈せず、現在のバングラデシュの首都ダッカ(ダッカ大学)で抗議集会を行いました。しかし、そこでデモを行っていた学生4名が警察に射殺されてしまいました。[3]
(補足)
射殺された4人を追悼する慰霊・記念碑「ジョヒド・ミナール」がダッカに建設され、複数回の破壊・再建を経て現在に至っています。このジョヒド・ミナールはバングラデシュ以外の国にもレプリカがあり、日本でも池袋西口公園にバングラデシュ政府から2005年に寄贈されたレプリカがあります。[4]
この出来事をきっかけに、ベンガル語国語化運動は大きく拡がった結果、1956年に公布・施行された当時の憲法(パキスタン・イスラム共和国憲法)では、ウルドゥー語・ベンガル語双方が国語(公用語)として指定されました。
その後、ベンガル語国語化運動は東パキスタン独立に向けた動きに繋がり、1971年のバングラデシュ独立戦争(後にインドが介入し「第三次印パ戦争」へ発展)を経て、東パキスタンはバングラデシュとして独立し、2月21日を「言語運動記念日」という祝日に定めました。バングラデシュでは、毎年2月21日に全土で慰霊祭や言語・教育・文化などに関するイベントが行われたり、この出来事の歌「エクシェ・フェブラリー」を歌ったりしています。[5][6]
これにちなみ、1999年11月17日にユネスコで国際母語デーが制定されました。