ハイチの村びとの健康と復興を支える菜園
2010年のハイチ地震で被災したドスパレ村。いまこの村で
は、村出身の若者たちが中心となり、食を通じた支援・復
興が行われています。(清田)
https://www.we.org/stories/we-villages-programming-teaches-food-sustainability-and-self-sufficiency-in-haiti/
ハイチのドスパレ村には「タダでありつける昼ごはん」はあり
ません。オスレット・エスティンピルは、このことを誰よりも知
っています。
ハイチの人里離れたこの村の校庭には、オオバコの木が果
実の標識のように高く生い茂っています。生徒たちは、彼ら
の昼食になる作物を大事に育てる学習をし、自らの食べ物
を育てる大切な担い手として活動しています。何列にも並ん
だトマトやナスビ、オクラやヤマイモが、350人を超える生徒
の暖かい給食になるのです。
持続可能な農業の学習によって、生徒たちは現在では確
かに満足な食事ができ、また確実に生涯に渡って有効な
栄養価の高い食物の栽培方法を知ることができます。こ
のことは同時に、開発学の専門家の間で知られている
「食糧安全保障」(かつてはこの村で全く保証されてい
なかったもの)を保証すると言う意味にもなります。
ドスパレの学校の卒業生オスレットは、ここの生徒たちの重
要な学びを支えています。彼は人生をこの村での農業学習
の普及活動に捧げています。
子どものころ、オスレットは、成長したら何になりたいのか―
農学者になりたいと―はっきり自覚していました。彼は、最上
の穀物の育て方、一粒の種子から最大の収穫を得る方法を
見つけ出したいと思っていました。両親が小さな土地を耕して
いて、そのため彼は自然に彼らが何をどのように栽培している
のか知りたいと思うようになりました。
しかし、ハイチの農村の田舎育ちでは、彼の思い通りに事
は運びませんでした。両親は二人とも〈当時この村では珍
しい〉小学校を卒業するまでになっていましたが、高校には
進学しませんでした。高校は村を出た町にあり、そのため、
授業料に加えて食事付き宿泊料金がかかります。農学の学
位を取得するには、首都ポルトープランスで学ばなければ
なりませんでした。
こんなことでオスレットが後退することはありませんでした。
オスレットの両親は、息子の大地への愛着に特別な関心を
持って見ていました。母親は、父親の農耕から得られる食物
の他に家族の必需品を賄う収入源として小さな家畜を飼いま
した。両親はよく働き貯蓄していきました。ついに、両親はオス
レットが近隣の町の高校を卒業するに足る財源を集めました。
オスレットにはこれで終わりということではありませんでした。
両親は―末っ子の弟の夢のために結束した姉や兄と共々に―
支援を続け、オスレットは都会のポルトープランスの専門学校を
卒業しました。
その後、彼が外で得たすべての知識を村に持って帰る時が
来ました。いまオスレットは、ハイチのWE Villages(フリー・ザ
・チルドレン)の事業を支える農学者になっています。彼はド
スパレの学校菜園(と言うよりむしろ野外教室として知られる
)を主宰しています。村との強い結び付きによって、彼はロー
ルモデルとしての地位を、菜園に集う人たちとの交流によっ
て固めて来たのです。
生徒たちが責任を持って菜園の世話をしている理由を聞か
れると、彼の目は輝きます。フランス語で「ウィ、ボーン!(は
い、いいですよ)」と言って彼は、水源の利用、乾季での効率
的な苗の育て方、植え付け技術や、作物の選別など、訓練
の技術について10分間の説明に入ります。
彼は、人に「食物の科学」を教えるのが大好きなのです。
ハイチに関して言えば、国情を考えると自給自足の農業
の普及が急務です。この国では、緊急支援―2010年の
地震の後の災害救助を目的とした―が、継続的に行わ
れ、救援物資の配布が常態化していました。そのため地
域の貧困の連鎖をぶち破るというより、他国への依存か
ら脱出できなくなり、かえって現地の農業を衰退させてし
まったのです。
これは、WEのやり方ではありません。WEは長期的な視野
に立った食糧支援を行いたいと願ってきました。
ドスパレ村は、WEが地震後パートナーを組んで学校全体を
再建した最初の村でした。食糧支援は、農村に住む、故郷
を追われた、孤児になったといった子供たちに充実した教
育を提供するためにWEがこの国で担っているミッションの
基礎となるものです。飢餓をなくしてこそ生徒たちは勉強に
集中できるのです。
WEの支援を受けて、オスレットはそれを実現しているのです。
「僕は、農業は生活の科学だと知りました」とオスレットは言
います。「ここに戻って働くことが、僕にとって夢でした。栄養
のある食事を摂っていない子供が教室で勉強に集中すると
いうのはとても難しいことです。僕が生まれた場所に帰って
きて、ここで生徒たちに僕の知識を伝えていくことが、僕にと
って大変重要だったのです」。
小学5年生のローディン・デルマスは農業の学習に熱心な
生徒です。彼女はクラスメートと共に授業の実技として菜
園作りに励んでいます。友人たちと大声で笑ったり両手を
掲げたりして、オオバコと高さを競うばかりの巨大なサトウ
キビの茎を、これを見なさいとばかりに見せびらかしています。
「農機具を使って畑づくりをするのが好きです。また種を蒔
いて収穫時に苗が成長していく様子を見るのが好きなんで
す」と彼女は語ります。「こうすることで自分に誇りが持てる
のです」。この若い生徒が菜園で見せる屈託のない性質は、
彼女のこれまでのことを知ればもっと胸を打つものがあります。
ローディンの両親は地震で亡くなりました。彼女は、ドスパ
ル村の女子収容施設で生活しています。10代後半の歳で
すが、小学校を卒業しようと固く心に決めています。「この
強さは、両親からもらいました」彼女がこのことを皆に訴え
ると、彼女の表情は、真剣そのもの、厳しくなりました。「母
さんがよく言っていました『あなたは一番年上。私は子ども
たち皆に期待しているけれど、一番期待しているのは、あ
なたよ』。私は母のこの言葉に勇気づけられています。だ
から私はおとなになったら強くて影響力を持つ人になれる
よう勉強したいと、心から思っています」。
ジャクネル校長は、菜園は身体以上に心に栄養を与え、生
徒たちの自信と生きる力を築いていく上で力となるものだと
信じています。
「私は生徒たちが自信を強めていくのを見てきました。種を
蒔くのも生徒だし、農作物を収穫して、給食を準備する調理
人のところに持って行くのも生徒たちなのです。生徒たちは
これが自分たちの食糧であり、それを育てる責任も自分た
ちにあることを知っています」。
校長は17年間この学校に勤めてきました。彼はオスレット
の思い出として、クラスで「とても親切で、とても協力的な」
少年だったと言います。このかつての教え子は、大きくなっ
たら農学者になるんだと、よく話していました。
いまこの校長は、オスレットのことをいまの生徒や家族の見
本であると、誉めたてています:「保護者会で、教育を受けて
成果を上げた人彼を引き合いに出します。彼はかつてこの学
校の生徒でした。そして彼はよその土地で必要な知識を習得
し、その知識を私たちに伝えようと、この村に帰ってきました。
私たちは、彼が夢を実現する過程を見てきたのです」。
農作物が生い茂る校庭と新築された学校の調理場〈給食
全部の賄ができる〉は村全体にとって大きな誇りなのです。
菜園から生徒たちが学ぶことの他にも、学校の農業の訓練
を行事と村びと向けに行い、父兄にも改良された農業技術
を教え、自宅の庭でやってみるよう指導していきます。オス
レットの目指すところは、全ての村で学校菜園を始動させる
ことです。
ハイチは自然災害や農作物を危機に追いやるほどの極端
な天候に見舞われ続けていますが、それでもなお、ドスパ
レ村は支援物資に依存するような状況には陥っていませ
ん。その理由は、この村で育った若者たちが外で学び、そ
して次々と村へ戻り、村の復興に関わっている様子をみれ
ば明らかです。オスレットのように、改革魂にあふれた地元
出身のチェンジメーカーが、外で学んだことを村びとたちに
伝えているこの姿は、国際支援のあるべき姿を私たちに示しているのか
もしれません。
(原文記事執筆:ワンダ・オブライエン 翻訳:翻訳チーム
松田富久子 文責:清田健介)