【コラム】フィリピン・レイテ島タクロバンの現状、あれから1年。

フリー・ザ・チルドレン・ジャパンのパートナー団体、フィリピンで活動を行うプレダ基金の運営を行っている、シェイ・カレン神父が執筆したコラムをご紹介します。

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15歳のJosephineとその父Joseにとっては、辛く、難しい話しでした。私、シェイは、2人が住む1部屋だけの小さな家で、小さなプラスチック製の椅子に座っていました。その家は、島を襲った史上最大の台風、ハイヤン(ヨランダ)後に、がれきを使って、2人が建てたものです。Josephineは、年より老けて見える父親の傍に座っていました。プレダ基金代表理事であるFrancis Bermido Jr.と2人で、このベニヤ板で作られた小さな家を訪れた際、Joseは、ちょうど電動モーターの修理中でした。それは、彼の生き残った子どもたちにとって唯一の生活の糧でした。

私たちがタクロバンにいたのは、88人の孤児たちの何人かに会うためでした。私たちが支援している孤児たちは、片親あるいは両親ともを無くしており、イギリス、アメリカ、アイルランドその他の国々から寄せられた、たくさんの寄付による援助を受けていますJosephine(仮名)も、そんな孤児たちの1人でした。

Joseのもう2人の子ども達が、悲しげな表情で小さな寝場所から出てきて、父親とJosephineに寄り添いました。そのとき、Joseは、妻と3人の娘がどう亡くなったかを、私たちに話しているところだったのです。

彼によれば、自分たちは、ラジオで警報を聞き、家を出て、近所の人、数十人と一緒に近くのバランガイ(フィリピンの地方自治組織)の建物の2階に行きました。2階なら安全だろうと思ったのです。しかし、風がとても強くなり、建物の屋根は耐え切れず、はぎ取られて、暗闇の中に吹き飛んでいってしまいました。雨風が押し寄せてきて、居合わせた人々はパニックに陥りました。私たちは階段を駆け下りて、1階に行きました。でも、Josephineは上の階にとどまったのです。

多くの人と共に私たちが階下に降りたまさにその瞬間、突然、大きな津波が、頭上からうなりを上げて覆い被さってきたのです。私たちは恐怖で一杯になり、子どもたちは、お’母さん‘と泣き叫んでいました。後に、町の人が話してくれたのですが、波の高さは、バランガイの建物を越えるほどだったそうです。1階にいた誰もが、波に呑まれ、水は渦を巻きました。私は、子どもたちと妻をつなぎ止めておくことができませんでした。娘の1人は、Josephineが居た2階に戻ろうとしましたが、結局、娘3人と妻はおぼれ、ここにいる子ども3人が、生き残ったのです。

彼は、重苦しく沈黙し、顔をくしゃくしゃにしました。大きな悲しみがのし掛かってきたのでしょう。後に、彼は、この辛い体験と喪失感を私たちに話すことで、気持ちが軽くなったと話してくれました。

Josephineが話しを引き継ぎ、「私は2階にいて、妹が自分のところに来ようとしているのを見ました。私は、その手を握りましたが、強い引き潮の力に抗して、妹をつなぎ止めることができませんでした。妹は、水に飲み込まれてしまいました。私は、とても悲しく、妹を救えてさえいればと思います。」と語ってくれました。

「でも、私は、勉強をやり遂げようと思います」と、彼女は言い、ラジオのところに歩み寄って、その下からATMカードを引き出し、誇らしげに私たちに見せてくれました。それは、プレダ基金の払い出しカードでした。それを使って、彼女は、勉強や生活支援に必要なお金の支給を受けているのです。

タクロバン市やパロ市の富裕層の商況は活況を呈しており、大きな家々は修復されています。しかし、あばら家の方は、建て直されても変わりがありません。町はきれいになりましたが、貧困層の生活は崩壊したままであり、悪化さえしています。貧困層の人々は、一層、貧しくなっています。

私たちは、海岸線に沿って、バランガイ76に向かいました。その地域では、津波によって何隻もの大型船が打ち上げられて、集落全体を押しつぶし、数百人が亡くなり、海に流されたりしました。その地域では、まだ改善の兆しが見られません。現在も、スクラップになった材料やプラスチックシートで作った、同じような仮小屋・あばら家が海岸線に並んでいます。打ち上げられた大型船は、まだ海岸に残っており、1隻は、スクラップとして解体中です。その船の大きなディーゼルエンジンが、散乱する汚い生ゴミ帯の中に転がっています。バクテリアが繁殖して緑色になった水たまりの水が、周辺を汚染し、また、2頭の大きなブタが、ゴミの中にいます。人々は、私たちに「何も変わらない、自分たちが、前より一層貧しくなっただけだ」という、ある男性の言葉を話してくれました。

私たちが落ち合ったプレダ基金の地域担当者は、絵や愉快な音楽人形劇を使って、大人や子ども向けのセミナーを開き、もっと良い生活への希望を持てるように彼らをワクワクさせ、元気づけ、指導しています。また、どうやって人身売買業者や児童虐待者から身を守るかということも教えています。

このような犯罪者たちは、有望な仕事をにおわせたり、支援者を装ったりして10代の子ども達やその親たちのところにやってきて、もし、脈があると思えば、彼らは、マニラやセブのような大都市での実入りの良い仕事を示して言いくるめようとします。彼らは、貧しい人たちに対して、ハゲタカのようにどん欲です。災害の後に残され、テントや飯場で暮らす人々の貧困の悲しみや痛みを食い物にしているのです。

世界保健機構の報告によれば、80万人もの人々が、未だに、台風被害後のトラウマ、抑うつ、絶望感に悩まされています。1,150万人もの人々が、あの最大級の大嵐の悪影響を受けています。多くの人たちに、何らかの支援あるいは政府基金が行き届かなかったとしても不思議ではありません。

それでも、政府は、これまでに520億ペソ、ユーロにして10億ユーロ超を災害復旧に費やしてきたと言っています。しかし、被害者たちは、義捐金が一体どこに行ったのか、実際にその利益を受けたのは誰かということに、疑念を抱いています。フィリピンでの汚職レベルを考えると、悪徳政治家たちが、そのほとんどを着服したと思うのも無理はありません。

死亡者が数千人に達してからは、政府は、明らかに6000人ほどで数えるのを止めてしまいました。しかし、議会は、実態を調査し、実数を明らかにするよう求められています。死亡者数は18,000人にもなると推定している議員もいます。多数の墓穴が掘られ、数多くの遺体が、墓碑もないまま葬られています。

次に、私たちは、地域の教会に行きました。敷地内のテントでは、プレダの地域担当者が、社会心理的な救済として、大人や子ども達のために、活発にグループセラピーの集まりを設けていました。すぐ傍に、100名にも上る犠牲者の墓があります。私は、生き残った人、亡くなった人すべてのために祈りを捧げました。私は、幼い子ども達のための小さな墓のそばに立ちました。傍らでは、作業員たちが、子どもを失ったすべての人々のために、慰霊碑を建てているところでした。

墓の傍のポスターには、亡くなった子どもたちの写真が印刷されており、どれにも、次のようなメッセージが、重ね書きされていました。「私たちは、あなたを忘れません。」と。
(訳者:翻訳チーム 山下正隆)