ハイチ地震から10年:農村部で復興に携わる男性のストーリー

2010年の1月に発生したハイチ地震から今年で10年。WE Charity(フリー・ザ・チルドレン)は、現在も被災者と共に現地で復興支援を続けています。(清田)

https://www.we.org/en-CA/we-stories/global-development/rebuilding-haiti-ten-years-after-earthquake

 

地震が起こって建造物が崩れ落ちたとき、オラネル・メテルスと一同はちょうどポルトープランスのペチョンヴィルにある裕福な居留地の家を建設し終えたばかりでした。

彼の作品は目の前でふいになり、彼の命は助かりましたが閉じ込められてしまいました。

 

もしメテルスが、そのとき23歳でしたが、裕福でない近隣の別のところで石造建築をしていたなら、そこで死んでいたかもしれません。

ブルドーザーが翌日に到着し、消息をつかんだ住民のために瓦礫を除去するまで、彼は建物の残骸の中で眠っていました。

 

彼の家族はそう幸運ではありませんでした。

メテルスは脱出した後家に戻るため、倒壊した街の瓦礫の中を足の踏み場を選んで歩きました。

いつもより長く、二日間かかりました。

彼は崩れ落ちた家と両親、三人の妹、三人の弟が中で死んでいるのを見つけました。

メテルスと生き残った15歳の弟は壊れた街に二人きりでした。

 

10年が過ぎ、震央と痛ましい記憶から三時間離れたところで、「私は生き残りましたが、自分の一部が死んだようでした。」と彼は言います。

 

現在メテルスはハイチで進行中の再建への取り組みの一員で、石工として世界的非営利組織であるWE Charityと働いています。

母なる自然の最悪の猛威を生き残れるであろう、そして10年前にあれば愛する人々を救ったかもしれない耐震構造の学校を建設して過ごしています。

 

 

2010年1月12日、カリブ海の小さな小さな国家を30秒間揺らしたマグニチュード7.0の地震は20万人以上の死者を出し、弱い統治とムラのある支援配給によるその場しのぎの再建努力を国に課しました。

メテルスは災害の直後に移住させられた150万のハイチ人の中にいました。

多くの人はポルトープランスを離れて農村部へ移り、障害物や崩壊した橋の向こうの、ほとんどの援助物資が届くよりさらに先の小さな村々は収容能力を超えて人口が急増しました。

余震が国中を伝播する間に、10万人近くの人が首都から北を目指して安全な場所へ歩くかヒッチハイクをしました。

世界の援助と努力は死傷者数がもっとも多い震央に向けられました。中央大地地方では別の種類の必要がありました。

 

WE Charityは地震が起こったときハイチで10年間活動しいていて、組織は活動を農村部に絞り、首都から三時間ほどのアンシュで立ち上がりました。

 

地震の年忌にメテルスは、自身の話を通訳を通してクレオールで語ります。

ポルトープランスを去り、同じく首都で全てを失くした友人と旅をし、アンシュの小さな村Kabayiの身内のもとへ向かおうとした自分の決定について「何も残っていませんでした。私たちは移動するほかありませんでした。」と語ります

彼が最初Kabayiに目を留めたとき、ハイチ唯一の内陸の州にある遠方の丘へと続く砂利道を調べて、全てを失った若者は考えました。「これで何かできるかもしれない」

 

ゲラン・オノレも同じ考えを持ち、ポルトープランスのすぐ外にある街ミバレにある彼女の家を離れアンシュへ来ました。

彼女とメテルスは故郷にいた頃から知り合っていて、離れてすぐにも再び会っていました。

彼が言うことには彼らはすでにいい仲で、全てを失った後、その愛を否定したり待ったりする理由はありませんでした。

二人は結婚し、メテルスの石造建築の仕事からの貯蓄とオノレが市場で米、パスタ、缶詰牛乳といった乾物類を売ったお金で家を建てました。

 

メテルスは石工としての雑用仕事にありつき、妻と家庭を始めました。第一子マイケルが小学校に上がったとき、彼の教室は崩れていました。

校舎は築90年近く、腐りかけた壁で屋根のない教室が一つだけでした。

Kabayiには地震が直撃しませんでしたが、何年も放置された学校の状態がそのようにしていました。

 

 

WE Charityはこの理由から、災害後の人口流入と不十分なインフラに苦しむ人里離れた地域社会と手を結ぶためにアンシュに進出しました。

組織は教室を建設し、校庭を設置し、衛生プログラミング、収入機会グループ、移動診療所をつくりました。

2018年、政府からの勧めでKabayiはWE Charityと手を組みました。最初のプロジェクトはマイケルの壊れかけた学校を取り替えることでした。

 

組織は経済を加速させるために地元の建設業者を雇いました。

「私たちの取り組み方は参加型です。私たちは地域の強みを募集します」と、技術者とWE Charityのハイチの参事を指導するフランデュー・ナポレオンは言います。

彼は2010年から組織と共にあり、70以上の教室を建設しました。彼は、土地を追われた人々を有意義な方法で新しい共同体に統合することが重要であり、住民を労働者として雇うのが鍵だと言います。

 

「もし共同体が建設に参加したら、彼らはそれを自分たちのものとして感じ、プロジェクトの寿命を延ばすでしょう。私たちは移動してきた人と地元の人を差別しません。彼らは皆一つの家族として一体になります。」

 

ナポレオンは地元の仲間に地震とハリケーンのプルーフ技術原理を教え、それを今度は彼ら自身の家や地元のプロジェクトで再現出来ます。

彼はメテルスと並んで働き、メテルスは息子たちの足の下にある土台を作るコンクリートを混ぜました。

 

メテルスは二人の息子、6歳のマイケルと5歳のルベンスと座って自分の話をします。

激しい風を安全に通す耐サイクロン設計の窓、三段階で現場打ちされたコンクリート梁、それに侵食試験をした土壌に深く据えられた土台で補強された教室で、彼らはアルファベットを練習しています。

メテルスは安定して安心な気持ちだと言います。ここには定住するのに十分なインフラがあります。

彼は決してポルトープランスには戻らないでしょう。

彼の周りの壁に使われているシンダーブロックは一つずつ強度試験が行われ、その内2000個近くがここにあります。

 

メテルスによるとマイケルとルベンスは専門家、彼の受けた5年教育の先まで学んだ医者か技術者になり、彼のように苦労しないでしょう。

家からほんの数分しかかかりませんが、彼は息子たちを学校まで確実に歩いて送ります。

今、メテルスが誇らしげに見守る中、マイケルはABCの歌を教室でそっと口ずさみます。

まもなく彼らには兄弟ができます。オノレは第三子を妊娠中です。

 

10年前の火曜日を思い返すとき、メテルスは不安になります。

「ときどき私は夜横になっても全く眠れません。そのことについて考えるのをやめられないのです。

もし私の母と父がまだここにいたなら自分でそれを解決する必要はなかったでしょう。

 

彼は将来について慎重ながら楽観的ですが、その予測が難しくなり得ることを知っています。

「明日何があるのかはわからない」と彼は言います。「子どもたちは私の希望です」

(原文記事執筆: ケイティー・ヘウィット  翻訳:翻訳チーム 中根葵 文責:清田健介)