ケニア大統領夫人の、バラカ病院訪問記
WE Charity(フリー・ザ・チルドレン)が支援している、ケニアのバラカ病院。
この病院に、ケニア大統領夫人が視察に訪れました!(清田)
https://www.we.org/en-CA/we-stories/global-development/first-lady-kenya-visits-baraka-hospital
ケニア大統領夫人、マーガレット・ケニヤッタはヘリコプターの操縦者にここで止めてくださいと声をかけ、ケニアの首都ナイロビから搭乗し来たヘリコプターの巻き上げる砂ぼこりの疾風を受けながら、ナロク郡に降り立ちました。
彼女はWE Collegeの開校の祝典でテープに鋏を入れ、スピーチをする予定になっていました。
しかし、この公務を始める前に、何人かの赤ちゃんにキスしたいと思ったのです。
これは目立った政治活動では決してありませんでした。
ケニヤッタは長年、母親の保健環境の整備熱心な擁護者であり、ケニア全土で医療機関の利用を拡大し、幼児と母親の死亡に終止符を打つため、2013年にBeyond Zeroキャンペーンを開始しました。彼女はバラカ病院―マサイ・マラの外れにWE Charityが設立した医療機関―への訪問に期待を寄せていました。
産科病棟の成功例を知るため、看護師や医師と話すため、そして何よりも新生児に会うためでした。
そこはマサイ・マラの付属病院です。
ケニヤッタは、出産前の部屋に足を踏み入れ、健康診断を待っている妊婦に挨拶しました。
バラカの看護師、Justin Naiguekは、受けもちの患者に付き添う準備をしていました。
彼はこの病院で3年間に100人以上の子どもの出産に携わってきました。
そのため、医療機関がどれほど生活を変えたかと聞かれた時には、彼の話には説得力があります。彼は1人の赤ん坊の話をしてくれました。この子は、誰の話でも元気で生まれてくる筈がなかったのです。
バラカ病院の救急車がMama S*を乗せて病院の門を勢いよく通り抜けた時、Naiguekはその場に居合わせていました。
突然、彼女の陣痛がバラカから100キロほど西のエマルティの町に近い自宅で始まってしまったのです。
29週目と言う極端な早産で、しかも双子でした。
この段階で生まれた子どもは超未熟児とされ、さらに慢性的な病気のリスクを背負っています。
これらの子どもは平均より小さく、しばしば呼吸困難、低血圧、体温の調節が困難と言う問題を抱えています。
整備の行き届いた環境の下では、たとえ未熟児であっても生き残れ、元気に成長します。
しかし分娩には複雑な問題が発生します。
Mama Sは家族に付き添われながら、自宅で分娩しました。
この時、この小さくてデリケートな2人の生き物には緊急の治療が必要でした。
バラカの救急車が産科病棟に着くまでに、第1子〈女児〉が亡くなっていましたが、第2子〈男児〉はどうにか持ち堪えていました。
「男児の体重は僅か900gでした」とNaiguekは語ります。
彼は、看護師たちがこの子が呼吸ができるようにと注意深く肺をきれいにし、念入りに身体を拭いていたと、感慨深く振り返っていました。
900gと言うのは、1リットルの牛乳の箱よりも軽い重さです。
この乳児の反応―新生児が出生後すぐに食べることができる進化的衝動の機能―が発達していませんでした。
いまにも壊れそうな赤みがかった紫色の皮膚は紙のように薄く、小さな血管が浮き出ていて、寒さから彼を護ることができませんでした。
74日の間、バラカ病院の新生児室が彼の家でした。
太陽が昇りまた沈む、牛が病院の周辺の野原で草を食む、近くの学校では生徒が教室に駆け込む―そんな中で彼は保育器の中で保温され、小さな肺の酸素の吸入を助ける器具に繋がれていました。飲食物は鼻腔からチューブで投入され、抗生物質が初期の免疫システムを補充していました。
毎日の体の手入れと体重の測定は最大限の注意を払って行われました。
ママSは、目が開くまでにも母親が分かるようにと、機会があればいつも彼を抱きしめ、スキンシップをしました。
Naiguekは、この赤ん坊の心拍が次第に強くなっていく様子を昼夜を問わず寄り添って見守る看護師のローテーションの中に加わりました。
このよう例は、ケニアの都市部以外では比較的珍しいことです。
途方もなく長い道を行かねばならないため医療機関を利用できず、早産や分娩中に生じる不測の事態が、母子ともに死刑宣告となることもあるのです。
大統領夫人―この国で最も熱心な母親の保健環境整備の擁護者―がわざわざバラカに立ち寄った意味がここにあったのです。
彼女の主催する団体は、数多くの移動診療所に資金を提供し、政策の改善を提唱し、さらに数々のNGOとパートナーと手を組んで遠隔地の輸送機関の運行の改良に力を尽くしています。
バラカ病院や同様の病院は、希望を寄せています。
ケニアの統計局によると、国の医療機関で出産する女性の数は、近年劇的に増加してきました:2008年にわずか40%を超えるだけであったのに、2014年には61%になり、昨年のデータでは利用回数がさらに増えました。
しかしこの数字は全般の数字を示しているのではありません。
病院を利用できる確率がどこでも同じということではないのです。
人口100万以上のグレート・リフト・ヴァレイの南端にあり殆んどが農村地域のナロク郡では、2014年では医師の手による出産で生まれたのは5人のにたった1人だけの割合だったのです。
一方、ケニアの乳児の死亡率は圧倒的に高く1000例の出生例に対し34件に上っています(ちなみに、カナダでは1000例に対し4件です)。
ママSの息子は、バラカの病院で生まれたため、通常の統計が当てはまることはありませんでした。
彼が受けたケアのレベルは、病院のスタッフの誇りであり、医療水準の進展を示す指標になりますと、Naiguekは話します。
それ以上に、診療を受ける人々にとってこの病院の存在意味は何なのかについて新しい発見があるのです。
「患者が元気に退院していく姿を見ると、純粋に満足感が湧いて来ます」と彼は振り返って言います。
「でも、コミュニティのためにもっとしなければと言う気にさせるのです。どんなときにも、我々を必要としている母親がまた1人いるのですから」。
バラカ病院の医師や看護師は、以前より多く、外科的な処置を行い、子どもに天然痘の予防接種をし、移動診療所でコミュニティを回わり、患者の手当てをしたりします。
さらにまた、年毎にますます多くの赤ちゃんが誕生するのです。
2013年に産科病棟が開設されて以来1800人の赤ちゃんがバラカ病院で誕生しました。
そしてNaiguekの推計ではこの地域で生まれた10人のうち9人以上がここで生まれています。
「母親からの信頼が厚いと言うことになります」と、彼は過去6年間で起こった変化について説明します。
多くの女性が伝統的な出産方法から脱却するのは、飛躍でした。
大統領夫人の訪問で、この飛躍の正当性の立証がさらに強くなりました。
Naiguekと彼の患者で妊娠末期となる女性の出産前の部屋で、ケニヤッタはこのまもなく母になる女性に健康や病院での経験について尋ねました。
大統領夫人が部屋を出て、足音が聞こえなくなるや、この患者はいぶかしげな表情でNaiguekに振り向きました。
彼女は、あの婦人が重要な地位にいる人物だということは分かりました― 後ろに控えている側近の会話から―しかし彼女にはその人がケニヤッタだとは気付きませんでした。
『私は彼女に惜しいことをしたね。あの人が大統領夫人なんだよ!、と言いました』と、Naiguekは彼女と大統領夫人との短い会話を思い出しながら笑顔で話します。
「コミュニティを代表して大統領夫人に挨拶できたとは、本当にうれしいと、彼女は大きな声で話しました」。
大統領夫人の足音がホールから遠ざかるにつれて、訪問によって起こったあの一瞬の興奮も薄れ始めました。それに代わって、
新たにいつもの感覚が戻り、Naiguekと彼の患者はさっと検診に戻りました。
*患者のプライバシー保護のため、名前は差し控えます。
(原文記事執筆: ジェシー・ミンツ 翻訳:翻訳チーム 松田富久子 文責:清田健介)