クレイグの父親が、障害のある人たちの尊厳を守る活動を行っていたジャン・バニエから学んだこと
クレイグのコラムの紹介です。
https://www.we.org/en-CA/we-stories/opinion/craig-kielburger-jean-vanier
1964年、フランスの精神病院を訪れたジャン・バニエは、まるで中世のような暮らしを患者がしているのを目の当たりにしました。患者はぎゅうぎゅう詰めになったベッドで寝ていました。暴力が蔓延っていました。そして助けを求めていました。
その瞬間、バニエは急進的な思想に目覚めた人物となったのです。
障害のある人たち社会から切り離されていた時代、バニエは彼らの尊厳を守るために、自身の生涯を捧げました。
バニエは、「ラルシュ」の設立者です。
ラルシュは、知的障害がある人と、障害がない人が共に暮らし働くコミュニティーのネットワークです。
ラルシュが設立された当時、この取り組みは革命的でした。当時は知的障害がある人たちにとって最善であるとされていた施設での生活から脱却し、社会での共生を目指し、知的障害がある人と無い人が良好な関係を築くことを優先するということを掲げた取り組みだったのですから。
それから数十年たった現在、ラルシュが起こした運動によって、大勢の人が社会に居場所を見つけて暮らすことができるようになりました。
「別に計画があった訳ではありません。私は大勢の障害者と健常者との出会いによって覚醒しただけなのです。」バニエは生前このような言葉を残しています。
私(クレイグ)の父であるフレッドは、自身が20代の時、特に何の計画もせず北フランスのトロリー・ブレイユ村に住むバニエを訪ねました。
当時、父は教員を目指していたのですが、コンビニのオーナーをしていた祖父が、店を暫定的に閉めて人生で唯一となった長期休暇を取りナイアガラの滝に行くというので、その夏の期間、父はヨーロッパを放浪する旅に出たのです。
父にとっては、人生の重要な節目となる旅でした。
父は、何か新しいことをやろうとしているカナダ人が北フランスにいると聞き、バニエのオフィスへと向かいました。
そして、父はバニエのオフィスで住み込みで働くことになりました。ソファーをベッド代わりにして寝て、バニエの母親にチークキスで起こされる生活が始まったのです。
ラルシュの始まりに立ち会った私の父ですが、現在ラルシュは世界38か国の150か所で運営されていて、従来の障害者福祉とは異なるやり方で、これまで社会から疎外されてきた人たちが社会の一員として暮らせる世界を体現しようと模索を続けています。
とはいえ、父がラルシュに関わっていたのは、1960年代中盤の頃。その当時は、「共生社会を実現しよう」などという機運は社会には全くなく、障害がある人たちを社会の一員として認めようなどという考えは社会の中に皆無でした。
それどころか、ラルシュには水道や電気も通っていないありさまでした。
ですから、その始まり自体は行き当たりばったりだったのです。障害があるラルシュの入居者と共に料理をして、食卓を囲みました。共に菜園活動をし、共に買い物をし、共に遊びました。
入居者たちは工芸品を作り、それらを販売することで、収入を得て、入居者が暮らすグループホームの運営費を得ていました。工芸品の販売は、ラルシュの入居者が社会に貢献する機会の場にもなっていました。
私の父は活動家ではありませんが、ラルシュで学んだことは、父の人生のみならず、私の子ども時代にも大きな影響を与えていたことは間違いありません。
バニエの思いやりは、この世界に善をもたらしていました。その善は、父や私自身にももたらされていたのです。
父がバニエと過ごした時間は、私たち家族が、愛と敬意を抱きながらこの世界と向き合っていく、特に弱い立場にいる人たちと向き合っていくための基盤となったのです。
今年、バニエは亡くなりました。ラルシュはこの8月で創立55周年を迎えます。
ラルシュのこの55年の歩みは、間違いなく成功談であるといえるでしょう。
バニエはカナダ勲章とフランスのレジオンドヌール勲章の受賞者でもあります。
さて、私の父について話をもとに戻しますと、父はラルシュでひと夏を過ごしたあと、トロントに戻り、フランス語の教師となります。やがて同じく教師をしていた私の母と結婚と出会い結婚することになります。
なんだか今日の話題と何の関係も無いように見えますが、父が築いた家庭には、バニエからの教えがしっかりと根付いていきました。
それは、使命感や目的意識を持って日々歩んでいくことで、人は強く優しくなれるのだということです。