門出を迎えたケニアの若者が抱く夢
教育は、人の夢や可能性を大きく広げます。
今回ご紹介するのは、高校生活を通じて外科医になる夢を見つけたケニアの若者です。(清田)
https://www.we.org/stories/kisaruni-graduation-valedictorian-speech-kenya/
暖かい月曜日の午後、ケニアのナロク郡にあるキサルニ女子学校系列校の校庭で、ミルカ・チェプクルイは心の準備をしていました。
もうすぐ、一緒に卒業する卒業生、先生、親族、寄付者など、大勢の前で卒業式の答辞を述べることになっているのです。ゆったりとしたガウンに黒い帽子をかぶったミルカが開場を横切ると、ガウンが風にはためきます。
頭を高く、マイクを握りしめ、卒業生総代らしからぬミルカが答辞を述べるのです。
静まり返った群衆に向かいミルカはこのように始めました。
「キサルニでの日々は、私にとって人生を変える経験でした。ここに来た時、将来に向けて大きな夢は持ってはいるけれど、どうすればいいかわからずオロオロしていた人もいました。けれども、今、自信と達成感にあふれた女性として卒業しようとしています。」
その後、緊張のためフラフラしながら、18歳になるこの少女は現実感がないと言いました。
実際、このようなことが現実するとは考えられない状況に彼女はいたのです。
ミルカは、ケニアのボメット郡にある小さな町、ソティックで生まれ育ちました。
6人兄弟の5番目で、女の子は2人しかいません。母親のルース・ロノの影響で、本を読むのが好きになりました。
ロノはトウモロコシ農家ですが、小学校を卒業した数少ない女性の一人で、地元の小学校で教師のアルバイトもしていました。ロノはミルカや兄弟たちのためによく本を持ち帰っていました。
「『教育をちゃんと受けたから小学校の先生として働けるんだよ』って子どもたちに言ったものです」とロノは言います。
「もっと教育を受けたなら、できることがどれだけ増えるか考えてみて下さい。」ロノは子どもたちに自分よりさらに上を目指してほしかったのです。
これは、ケニアのマサイマラ地区に住む親なら誰もが感じていることです。
ひと世代前には、小学校教育を受けられる人もあまりおらず、そもそもほとんどの人がちゃんとした学校というものに行くことはありませんでした。
もちろん、親ならみな子どもたちに良い教育を受けさせたいと思っています。
問題は、極貧地域で学校を見つけることができないことです。
小学校には、教材や教室が十分にありません。高校も少なく、あったとしても授業料が払えない親が多く、どの子を学校にやるか選ばなければなりません。
家事を担うのが慣習となっている女子は、取り残される傾向にありました。
1999年にこの地域でWE Charity(フリー・ザ・チルドレン)が活動するようになってから、小学校と協力して教室を作り、教員を育成し、教材を提供することによって、質の高い初等教育を受ける機会が増えました。
2010年に、WEはナロクにキサルニ女子学校を開校し、女の子が小学校から高校へ行けるチャンスを作りました。
その時、ナロク郡の隣接地域にいたミルカは5年生でした。
つまり8年生になって小学校を卒業するために必要となる試験、ケニア初等教育課程修了試験を受けるまで3年を残す頃でした。時期的には早いですが、ミルカはすでに高校に行くことを夢見ていました。しかし、キサルニについてはまだ知りませんでした。
ミルカは言います。「学校が大好きでした。見るものすべてに興味がつきず、あらゆるものを学びたかったんです。」
学習意欲は旺盛でしたが、学校を欠席することもありました。
ミルカの両親は、1エーカーの土地から得られる農作物とパートタイム教師としての収入だけで、6人の子供の学費をまかなっていたのです。
ケニアの初等教育は無償ですが、それでもなお制服や学用品を買い、受検費の支払いもありました。
また、中等学校は無償ではありません。
ミルカが5年生の時には上の兄弟2人が高校に行っていたので、経済的な重荷はすでに相当なものでした。
世帯収入の多くを兄弟の中等教育費用に割り当てられていたので、ミルカはしばしば試験や学用品の支払いができず学校に通うことができなかったのです。
ロノと夫のジョンは、他の農場でも働いて副収入を得ていましたが、それでも足りませんでした。
欠席した分に追いつくため、ロノは仕事が終わってから子どもたちを教えていました。
2014年、ミルカが8年生になるまでに、家族みんなでお金を貯めてなんとかミルカは修了試験を受けることができました。
ミルカは学校でもトップクラスの成績を収めました。学校側はミルカを含めた成績優秀者のためにパーティーを開いてくれました。しかし、ミルカは喜んでばかりはいられませんでした。
高校に行く余裕がなかったからです。その頃、ミルカは毎晩のように泣いていたそうです。
「試験でも成果を出して、学校に行きたいと思っていたのにいけないなんて、理不尽だと思いました。」
友人や親せきに頼むなどして、両親はお金を集めようと何週間も駆けずり回りました。
隣人からキサルニのことを聞いたのはそんな時でした。
「希望を持つことさえ怖かった。」とミルカは言います。
「でも、お母さんと一緒に学校へ行き、入学できるかどうか尋ねることにしたのです。」
優秀な成績を収めていたこともあり、ミルカは授業料全額免除の奨学金を得ることができました。
2015年にその奨学金を得た女子はたった44人でした。
[キサルニでの日々は、私にとって人生を変える経験でした。]ミルカ・チェプクルイ 卒業生総代
キサルニの責任者であるジョアン・バサロは、経済が成長、発展していくために最も効果的な方法は女子教育であると信じています。
「教育を受けた女子が、多くの障害を取り払い、貧困と無教育の連鎖を断ち切る鍵となります。」
学校に通うことで、女の子たちの夢は更に膨らみます。
実際、ミルカは、外科医、それも神経外科医になりたいと思っています。
14歳の時に、ベン・カールソン医師についての記事を読み、医師になることを決めました。
学校の図書館にあった古いリーダーズダイジェスト誌に書かれていたカーソン医師(現在はアメリカの政治家)を目にしたのは、ミルカがキサルニに入学して間もない頃でした。シングルマザーの貧しい家庭に育ったカールソン医師の苦労について読んだことを覚えています。子どもの頃に起こった数々の苦難を乗り越えて、世界的に有名な神経外科医になり、遂にはアメリカの住宅都市開発長官にまで上り詰めた能力に敬服しています。
カールソン医師の話に触発され、ミルカはそれまで以上に努力するようになりました。
「まず、毎朝1時間早く起きて予習をし、週末にもっと勉強できる時間をさけるようにしました。」
この努力は報われました。ミルカは、高校全国統一試験でB+という成績をとったのです。
この成績なら、十分、政府が全額提供する奨学金で大学に行くことができます。
既に、ケニアにある複数の大学に願書を提出し、そのうちのどこかに今年入学したいと思っています。
高校を卒業するにあたり、ミルカの両親の夢と自己犠牲、彼女の懸命の努力等、すべての経験が目の前の問題に立ち向かう力をくれたと言っています。
ミルカは、この地域に女性の神経外科医がいる事など聞いたことがなく、女医第一号になって、女の子だって大きな夢をもてると思わせるような存在になりたいと強く思っています。
ミルカの卒業生総代スピーチ全文:
ご来賓のみなさま、先生型、保護者の皆さま、卒業生のみんな、そして在校生のみなさん、こんにちは。
卒業生代表として、わたくしミルカは、今日私たちの卒業を祝福しにここへ来てくださった全ての人に感謝いたします。
また、わたくしたちに知識を注ぎ込んでくれた先生方、またキサルニにいる間ずっとサポートしてくれた仲間たちにも感謝したいと思います。
私たちに教育を授けようと支援してくれた両親にも感謝いたします。そして、キサルニに入学して高等教育を受けることを可能にしてくれた出資者、スポンサーの、みなさまに厚く御礼申し上げます。
みなさがいなければ、高校に行けず、今日ここにいるようなエンパワーメントを備えた女性にはなれなかったかもしれません。
キサルニでの日々は、人生を変える経験でした。ここに来た時、将来に向けて大きな夢は持ってはいるけれど、どうすればいいかわからずオロオロしていた人もいました。
けれども、今、自信と達成感に溢れた女性として卒業しようとしています。
私たちは家族のように共に素晴らしい時間を過ごしてきました。
将来この地域に於ける変革の担い手となれるように、時には互いを刺激し合い、時には知識を共有してきました。
そして今日、私たちは卒業し、この世界において、私たちが変革の担い手になることを約束します。
ここにいるみなさんに一番伝えたいことは、どんな困難なことがあろうとも決して夢をあきらめないでということです。
勇気と決意さえあれば夢は叶うからです。ここにいる全員が素晴らしい何かを備えています。
それを見つけさえすれば、内なる可能性を解き放つことができるのです。
いま一度、WEの皆さまが私たちの地域に与えて続けていただいているインパクトに感謝いたします。
ご清聴ありがとうございました。
ミルカ・チェプクルイ
2018年12月
2018年キサルニ卒業クラス、卒業生総代
(原文記事執筆:セディ・コスゲイ 翻訳:翻訳チーム 山田さつき 文責:清田健介)