ボランティア体験記~フィリピンの盲学校にて~(2)
こんにちは!
8月3日に掲載された記事に引き続き、
大学のプログラムに参加して、フィリピンの盲学校にて
ボランティア体験をしたFTCJ大学生メンバーの石田由香理さんの
体験記を紹介させていただきます!
石田由香理さんは全盲で、日本の盲学校に通い教育を
受けてきました。そういった自身の体験を通し、
日本とフィリピンでのしょうがい児童の教育現場の
違いについて、今日は紹介します。
―――日本の盲学校教育、フィリピンと日本のしょうがい者教育の違い―――
1. 日本には視覚しょうがい者が一般の人と同じレベルの教育をうけ、進学や就職できる環境があります。
日本の盲学校は「眼鏡やコンタクトを使用しても視力0.3以下の人」の子どもが入学できるので、様々な生徒がいます。全員が点字を使っているわけではありませんし、野球などができる子もいます。また、知的障害を持ち合わせた子もいます。ですので、本人のレベルに合わせて細かくクラスが分けられて、多くの場合先生と1対1の形で勉強しています。
その過程で、社会で生きていくための訓練をしていきます。
私自身、和歌山の盲学校に通い、靴下を自分で履いたり、水稲からお茶を注いだりすることを練習しました。その後幼稚部では、恐怖心をなくすため魚釣りや登山で動物や虫を触り、小学部に入ると点字の読み方、そして白杖と呼ばれる白い杖を使って一人で外を歩いたりしました。そして、中学卒業までには、一人で電車やバスを利用して外出できることが求められました。勉強については、また、点字教材のおかげで、一般の学校と同じレベルの授業を受け、理科の実験などもしました。
高校から受験して筑波大学付属盲学校に進学した私は、実家から離れ東京で寮生活を始めました。この学校は多くの生徒が大学進学を目指し、将来必要な知識を学ぶことができます。ここで、点訳ボランティアへの依頼のしかた、自分のしょうがいやニーズの説明のしかた、盲導犬とは何か、メイクのしかた、テーブルマナーなど)を学びました。
大学受験では一般の人々と同じ問題を点字で解いて合格し、現在大学に通っています。大学では、パソコンの画面に出ている文字を読み上げる(スクリーンリーダー」というソフトを使い、レポートを作成したり、インターネットやメールも使っています。
確かに、一般の人々と比べ多少の不便はあるかもしれませんが、日本の視覚しょうがい者は教育を受け、大学に進学し、就職しているのです。
2. フィリピンの現状
私が訪れたデュマゲッティ唯一の特別支援学校West Cityは視覚、知的、聴覚しょうがいの担当の先生が合わせて18名という小規模の学校です。そのなかで盲学校の先生はたった一人、多くの生徒を一度には見れず、教える子どもを午前・午後に分けている状況です。
そこでの環境は学校の授業からほど遠く、私はショックを受けました。教室には弱視の子が三人(12歳が二人と14歳が一人)と、全盲の14歳の男の子が一人、そしてお母さんといっしょにただ座っている5歳の全盲の女の子がいました。14歳はフィリピンでは高校2年生ですが、手遊びをしながらの歌を歌ったり、あるいはたとえば先生が「ブラウスのスペルは何ですか?」と聞いてみんなが口々に答えていたり…。雰囲気はまるで幼稚園でした。
先生の手が回っていないことも原因のひとつですが、一番の問題は彼らが点字教科書をもっていないことです。そのため、視力のあるなしで教科書に応じた勉強ができるかが決まります。全盲の男の子は授業中ほぼ放置されていました。一般の学校に通っても、視覚しょうがい者への配慮(点字教材など)がないため、教室にいることを許されるだけ。盲学校では学年相当の授業をあきらめなければいけない状況でした。
もちろん、ごく少数ながら、マニラなど都市にいけば、大学を卒業した視覚しょうがい者もいるそうです。しかし、情報が不足しているため、West Cityで学ぶ彼らに目指すべき目標(ロールモデル)を見つけるのは難しいことです。そのため、彼らの多くが、外を一人で歩く練習もしたことがない、一人立ちすることなど考えたことも無かったのです。
そしてもっとも大きな問題は社会の気風です。
貧しく、子どもの数が多いフィリピンでは、親も含めしょうがい者の将来にあまり期待を持っていません。その日盲学校で出会った5人のうち、一人の男の子は生まれてすぐに川辺に捨てられ、現在は里親の家族と暮らしています。もう一人の女の子もやはり捨てられていたのを、牧師さんに拾われ、現在教会で生活しています。現状として障害者への助成金や保証はほとんど無く、教育を受ける権利、いや生きる権利さえ保証されていません。
第3回は「活動を通して」です、お楽しみに!