クレイグのコラムから~環境が子どもの運命を分ける:オマールと僕の場合~

2010年10月17日配信 FTC創設者クレイグのコラムより

~環境が子どもの運命を分ける:オマールと僕の場合~

Gloval Voices

Kielburger: Omar Khadr, Jean Chretien and me

http://www.thestar.com/news/globalvoices 

オマール・カードルに出会った日は、ぼくの人生で一番おそろしい日

でした。

オマール・カドール(少年の頃と2009年の写真)

パキスタンの首都イスラマバードで、ある応接室に座っていたぼくは

ぶるぶる震えていました。オマールが一緒にいたことが、妙に緊張

をやわらげてくれました。

1996年1月、ぼくとオマールは五つ星ホテルで、当時カナダの首相だ

ったジャン・クレティエン氏を待っていました。ぼくは13歳になった

ばかりで、南アジアを旅しながら、児童労働のことを実地で学んでい

ました。このとき、クレティエン首相も同じ地域にいたのです。その

1週間前、ぼくは記者会見で、同首相には児童労働の問題に関して何

か行動する、道徳的責任があると発言していました。

それを耳にした首相は、イスラマバード滞在中にぼくに会うことにし

たのです。ぼくはビクビクしていました。振り返ってみれば、実際は

なんだかこっけいな話でした。カナダ人テロリストとしてもっとも有名な

一家と並んで座りながら、「シャウィニガンの絞殺者」とあだ名された

首相との面会に緊張していたのですから。

(訳注:かつて抗議者の首を捕まえ締めつけたことからこのあ

だ名がついた)

その朝、ホテルのロビーに入ったぼくは、いきなり記者たちにとり囲

まれました。そんな大騒ぎに直面したのは初めてで、緊張が全然おさ

まりませんでした。やがてカードル一家がやってくると、記者らが彼

らの名前を叫び、注目がそちらにそれたので、ぼくは、誰だか知らな

いけどありがとう、と思いました。

ぼくたちは待合室に移動しました。その場にいたのは、ぼくと、ぼく

の旅の同伴者でガイド役のアラム、カードル夫人、そして9歳のオマ

ールを含むカードル家の子どもたちでした。

カードル夫人は、夫のアハメド・サイード・カードルの無罪を主張し

ていました。彼は、17人が死亡したエジプト大使館での自動車爆弾テ

ロ事件に関与したとして、パキスタンで収監されていました。カード

ル夫人は、夫は濡れ衣を着せられたのであり、拷問を受けたのだと言

いました。ぼくは心配そうな子どもたちの顔をのぞきこみ、同情しま

した。

オマールとぼくは、お互いににっこりしました。自分とほぼ同じ年ご

ろの子どもと一緒に座っていると、心が落ち着いてきました。少し言

葉を交わしているうちに、トロントで住んでいた場所が近所どうしだ

とわかりました。ふるさとの思い出話をしていると、少し気が楽にな

りました。

ある補佐官がぼくの番だと言ってきたので、気休めのお菓子をもらっ

ていた子どもたちに、ぼくはさよならを言いました。

15分間の面談のあいだ、クレティエン首相は貿易法についていろいろ

話したあと、ため息をつき、パキスタンのベナジル・ブット首相との

会談で、児童労働の問題をとりあげることを約束してくれました。カ

ードル一家についてぼくが最後に考えたのは、彼らのほうは少しでも

道が開けるだろうか、ということでした。

数週間後に帰国すると、ぼくは嵐のようなマスコミ攻勢の的になって

しまいました。大勢の人が、その若さでどうしてそんなにすごいこと

ができたのか、と尋ねてきました。その数年後に、パキスタンで出会

ったあの少年が、アフガニスタンでの銃撃戦でアメリカ人兵士を殺し

たと伝えられていることを知り、彼に同じ質問をする人はいるだろう

か、と考えました。

ぼくはみんなが、13歳の子どもではできないようなことをぼくがなし

とげた、と感じていることに気づきました。いっぽう、オマールは、

10歳で兵器使用訓練を受けさせられたわけですが、もっと他の知識を

教えてもらっていたらと、残念に思われます。

しかし、実際のところ、ぼくとオマールはそれぞれの環境の産物なの

です。オマールは、その環境にいたことによって痛手を受けているの

です。

オマールとぼくは同じ町で生まれましたが、育った環境はまったく違

います。ぼくの両親は、自分たちを活動家だと考えたことはありませ

ん。けれども、母は若年路上生活者の支援センターで働き、父は精神

障害者を助けるボランティア活動をしていました。こうした経験に達

成感を感じていた両親は、兄とぼくもそれぞれの生きがいを見つけら

れるように応援してくれました。

そうした影響を受けて、最終的にぼくは1996年にパキスタンへ行くこ

とになったわけです。当時は気づきませんでしたが、ぼくは自分でそ

こへ行くことを決めたのに対し、オマールはそうではありませんでし

た。

トロントで育ったオマールは漫画が好きで、彼の兄弟は、オマールが

漫画の『タンタン』の登場人物、ハドック船長のものまねをしていた

様子を語っています。オマールの先生たちは、彼は頭がよく、勉強熱

心な子だったと話しました。もちろん、先生たちはオマールが父親か

らとてつもないプレッシャーを受けていたことは知りませんでした。

たいていの子どもは医者や弁護士になることを勧められますが、カー

ドル家の息子たちは、自爆テロリストを最高のあこがれとして育ちま

した。彼らの父親は、イスラム教に背こうものなら死罪だと脅しまし

た。父アハメドにもっとも似ていたといわれるオマールは、父親をが

っかりさせたくなかったのです。

だからこそ、パキスタンでオマールは見るからに心配そうな顔をして

いたのです。彼は以前にも、危機的な状況の父親に会ったことがあり

ました。その数年前、父アハメドはアフガニスタンで地雷を踏んで瀕

死の重傷を負ったのですが、彼が回復するまで、オマールは父のベッ

ドのそばを離れようとしませんでした。

彼の子ども時代は、恐怖心や家族への忠誠心、大きなプレッシャーに

よって形作られたものであり、そうした日々が彼をあのイスラマバー

ドのホテルへ導いたのです。子ども時代の影響で戦いの道へ踏みこん

だ彼にとって、イスラマバードでの出来事は何度も思い出す、忘れら

れないことだったでしょう。

カードル夫人と子どもたちはあの日、おおいに同情を集めました。な

ぜクレティエン首相はカナダ国民である彼女の夫を助けようとしない

のかと、多くの人々が疑問をもったのです。とはいえ、首相は、約束

は守りました。ぼくの問題もカードル家の問題も、ブット首相との会

談でとりあげてくれたのです。ブット首相が児童労働についてどう語

ったかはよくわかりませんが、彼女はクレティエン首相に、カードル

が公正な裁判を受けることを保証しました。

数週間後、アハメドは不起訴処分になりました。ぼく自身も含めて、

ほとんどのカナダ人はこの事件のことを忘れました。しかし、2001年

9月11日の同時多発テロ事件の発生後、カードルの名前がふたたび浮

上します―今度は、オサマ・ビン・ラディンとのつながりからでした。

結局、クレティエン首相と会ったことは、ぼくにもオマールにも大き

な影響を及ぼしました。ぼくにとっては、メディアからの注目が高ま

ったおかげで、「フリー・ザ・チルドレン」の地盤を固めることがで

き、ぼくたちの活動は急速に広まりました。いっぽう、記者らの騒ぎ

のなかを、母親に手を引かれて通り抜けていった少年は、刑務所から

釈放された父親に再会しました。そのわずか数か月後には、父親は彼

に爆弾の作り方や、兵器使用訓練での突撃銃の使い方を学ばせていた

のです。

あの運命的な瞬間が、ぼくたち二人の人生の流れを変えました。だか

らこそオマールは、半死半生でバグラム収容所に連れてこられた15歳

のころには、子ども時代を少年兵士としての訓練に費やしてしまって

いたのです。

オマールの父親の裏切りを受けて、カナダ政府は何年ものあいだ、オ

マールを帰国させる危険を冒そうとはしていません。彼の母親は、何

度もテレビに出て欧米の民主主義を非難しましたが、これによって反

感は高まるばかりでした。

 こんにちのニュースで見る24歳になったオマール・カードルには、

クレティエン首相の政治補佐官からお菓子をもらっていた、不安そう

な9歳の子どもの面影はほとんどありません。父親そっくりに成長し

た彼にとって、今なら司法取引という選択肢もあり得るでしょう。

 どの子どもにとっても、親に従って生きなければならないのはフェ

アなことではありません。カードル家の一員に生まれれば、なおさら

そうでしょう。

ぼくがパキスタンで出会った少年は、その家名を通じて処罰を受け

ています。悲しいことに、その名前は、グアンタナモ収容所で彼に言

い渡されたどんなことよりも、はるかに大きな重みをもっているので

す。

(翻訳:FTCJ翻訳チーム 久保恵美子さん)